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こんばんは。
創作する上で記録しておきたいことが出てきたので雑記を書きます。

 営業自粛に伴い、ライブハウスをはじめ、劇場や映画館など、芸術文化を担い守ってきた場所の存続が危うくなっています。先日、#SaveOurSpace主催の会見の配信を視聴したこともあり、一層危機感を覚えています。もちろん、今やどの業界も苦しいことは分かっています(会見では本当に多種多様な現場から声が上がっていました。それぞれ自分の言葉で語られているのが、当たり前なのに、今のこの国では本当に貴重な光景に思えて、何度も涙ぐんでしまいました)。分かっている上で、芸術文化に焦点を当てて書きます。自分は以前ライブハウスにお世話になっていた身であること、僅かながら芝居にも携わっていた経験から、「芸術の危機」を心底恐ろしく感じているのです。
 このコロナ禍において、音楽は「不要不急」であるという言葉を聞くようになりました。エッセンシャルワーク(人々の生活を維持するために欠くことのできない職業)に比べるとどうしても「娯楽性」が強い以上、「不要不急」と言われてしまうのでしょう(注意しておきたいのは、音楽をはじめ娯楽を“提供する側”は、決してそれを娯楽として行っている訳ではないということである……仕事なのです)。でも、本当に娯楽は「不要不急」なのだろうか? 自粛期間中、音楽や映画、読書によって心のバランスを保ったという人も、少なくないのではないだろうか?
 確かに、音楽を奪われた人が即座に致命的な状態に陥るということはないでしょう。私は息をするように音楽を聴く人間なので耐えられる自信がありませんが、まぁ、生理的に考えればそういうことになる訳です。別に音楽がなくても、人は呼吸できるし、食べて寝て起きるし、思考もするでしょう。でもそれは一時的という条件下であるからこそ成り立つ訳であって、延々と音楽を(あるいは他の芸術ないし娯楽を)奪われていては、これまでのようには生きられないはずです。生活と文化は隣り合わせにある。
 今このときに、芸術文化を担い守ってきた場所を失ってしまえば、簡単には取り戻せない。一から立て直すには多くの時間を要するでしょう。それまでの間、いや一体どれくらいまでの間、私たちは「不要不急」なコンテンツなしで日々を乗り越えられるのだろう。

 そんな思いもあって最近読んでみたのは、戸坂潤の「娯楽論 民衆と娯楽・その積極性と社会性・」。以前から、「支配側がお墨付きを与えて民衆に押し付ける娯楽というのは果たして、娯楽としての意味を保持し得るのだろうか」と悶々としていたので、そういった面でも発見があり、興味深く読みました。
「娯楽は殆ど一切の生活領域の内に根を持っている」
「娯楽という時間、娯楽という態度、それが社会に於ける人間生活にとって、可なり大きな教慰的な養生的な建設的な意義を持っている」
「娯楽そのものが労働生活の有機的な一環として社会的に公認掖導されねばならぬ」
……おおうまさに……まさに今この状況で響く言葉だ。
 ちなみに著者は、「一切の文化領域が夫々(それぞれ)の限度(=「大衆性乃至(ないし)民衆性を有(も)つ場合」)に於て、或る程度まで娯楽の範疇に這入ることが出来る」と述べている。つまり、あらゆる形の文化は、一般の人々に親しまれた場合娯楽となり得る訳か。“芸術文化”というとやけに崇高だけれど、その中の一部は娯楽として身近にある訳だ。なぜ芸術を軽視してはいけないのか、感覚的にしか分からなかったことが少しすっきりした。文化が衰退してしまえば、私たちの生活を豊かにしてくれる娯楽もまた衰退してしまう。なぜなら、娯楽の源泉は芸術文化だからだ。

そしてこれ
「娯楽は支配者の配慮によって外から与えられるものではない」
心に留めておこう。民衆性を持つということは、一般大衆を味方に付けるということだ。そうやって民衆を引き付ける“娯楽”を支配側が、権力側が提示してきたとき、その裏側にある意図にまで思いを巡らせなければならない。


 あと、ここからは余談というか、自分のための教訓なのだけど。創作にも通じるところがあるのでノートを取っておく。
「色彩や形の或る通俗的な美しさが、芸術的にも意味を有つ」
「まずごく普通の意味で面白いということから惹きつけられて、いつの間にかその作品が有つ特有の芸術的関心へ導かれるという場合、夫(それ)が「面白い」作品であり、そして大衆性を有った作品だと云われる」
 刺さります。深く深く刺さります。いっそ胸を抉られております。以前書き残した、創作をする上で私が犯していた過ちに加え、ここでもはっとさせられました。私はもう一つ間違えていたのか。
 白状すると、私は“大衆的”な、“低俗”な、“安っぽい”娯楽のようなものは、書きたくないと思ってきました。“取っつきやすい”という作品の性質そのものが、作品を薄っぺらいもの、無意味なものにしてしまうと思っていたのです。ああ、一番薄っぺらだったのは私だ! 取っつきやすいなんていう安易な見た目はごめんだぜ、と斜に構えておきながら、結局は見てくれにばかり囚われて、本当に中身を涵養するということをしてこなかったのは、紛れもない私だ。
 文章を読み慣れている人も読み慣れていない人も、あらゆる層の人が親しみやすく、気軽にアクセスできる作品というのが、どれだけ意味のあるものか。だってそういった作品は、読解の巧拙に関わらず、人々に娯楽を与えてくれるのだ。人の疲れを癒し、活力となり、幸せな心地を与えてくれる、娯楽に他ならないのだ。とってもバリアフリーなのだ。わぁ、なんてことだ! どうして気付かずにいたんだろう!
 小説はライト(light)でなければならないのだ! 常々、読まれるものを書きたい訳ではない、などと独りごちてきたが、そんなはずがないのである。書いたからには、書き手は読まれたいものなのである。自分の表現したい事柄が、どれほど“崇高”なものであるにしろ、門戸は広く開いておかなければならない。むしろ、物凄いものを隠し持っておきながら、どれだけ無防備に、易々と門戸を開いておけるかが重要だったのだ。そこが腕の見せ所に違いないのだ。
 わぁ、ほんとに! なんてことなの! またもやとんでもない勘違いをしていました。自分にびっくりする。どこまで未熟なのかと、呆れを通り越していっそ笑えてくる始末である。はは……
 精進します。私の書くものは、私にとっての娯楽に他ならなかった訳で、作品として娯楽そのものにはなり得なかった。道理で。一番すっきりしたのここかも?笑

今日書きたかったことは以上です。
紹介した本はインターネット電子図書館・青空文庫で公開されていて無料で読めるので(つまり紙の本より手に入りやすいと思われる)、ご興味があればぜひ。ブラウザで読めますが、私はkindleのアプリを入れて読んでいます。便利なので。
ちなみに今は同著者の、「思想としての文学」を読んでいるのですが、学が浅いのでとても難しいです……上に書いた内容も、解釈がおかしかったりするかも。本当に、学問というのをしっかりやってこればよかった。後悔の日々です。でも今から学んでも遅くはないはず。精進あるのみです。

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