先日は未熟なことを書いてしまい、深く恥じ入っているワシです。こんにちは。
「評価されない」ことへの嘆きは、創作勢の中でも珍しくないものだと思うのですが、自分は根本が間違っていました。そこに気付いたので書き留めておく。
まず、自分は集中力がないのと、外部からの影響を(善悪関係なく)受けやすいので、殻に閉じ籠らないと制作に向かえないタイプです。以前Twitterで(楽しかったのですが)どっと疲れてしまったこともあり、「双方向環境下での創作物発表」に臆病になっています。現在、一応はTwitterアカウントを稼働しているのも、先日のサーバーダウンがあったからです。サイト・ブログともに更新できない期間が一週間近くあったので、まったく違う場所で発信する手段を持っていないと「サーバーダウン中です! 閉鎖じゃないよ」を伝えることすらできないのだ、と痛感しました。そういう訳で、現在のあれはそもそも「サーバーダウン等緊急時発信用」なのです。ただ本当に緊急時にしか使わないとなると、アカウントの認知さえしてもらえないため、最近は壁打ちと化しています。少しでも動かそう、と思って。
とはいえ、低浮上というか浮上しても沈んでいるようなアカウントなので、フォローしていただくのも恐れ多いです(通知を見逃していることも多く、無反応ですみません)。存在意義を見失えばすぐにも消してしまいそうなアカウントですし、自分がまだあの場所の活かし方を模索中なので、当面は(いやもしかしたら半永久的に)一方的な発信の場になるかと思います。決して、交流したくない、お高く留まっている、とかじゃなく、以前のように義理だけで優しくされたりお手間を取らせたりすることが申し訳ないのです。自分も人様に構う余裕がないので、してもらってばかりだと恐縮してしまう。めんどくさいけどこれが私の仕様です……HSPあるある許してください……
で! ここからが本題なのですが、そもそも自ら双方向のコミュニケーションを(表面上)避けているくせに、「評価されない」ことを嘆くのはお門違いだったッ……! これが一つ目の私の間違い。
反応や感想がほしいなら、自分からそうする人にならないと! だがめちゃくちゃ元気なときじゃないと人様の素晴らしい作品を拝見することすらままならんような人間だ……人間関係において「してもらってばかりが心苦しい」と言っておきながら、創作の場ではその逆を他者に求めていた訳です。こんなおかしなことはないぜ。
それから、現在私のやっている多くは二次創作です。自分の創作物がほとんど二次創作であるにも関わらず、「そこに頂ける評価=自分の作品への評価」であると捉えていたところに、二つ目の間違いがありました。
私の創作物を見てくださっている方々は、純粋に私の作品を鑑賞し、私の作品に向き合っている訳ではない。「私の創作物」の世界を覗くことで、実際はその向こうにある「原作」を鑑賞し、向き合っているのですね。完全に見誤っていました。傲慢でした。本当に恥ずかしい。
だから、私の吐き出すものが二次創作である以上、文章が上手いとか下手とかそんなのは関係なかった訳です。いかに原作を解釈するか、その世界観を広げるか、あるいは新たな展開を加えるか。大事なのはそこだった訳です。「原作では描かれていないこういうシーンが見たい」という読み手の需要と一致したとき、初めて評価され得るものになる。「こんな解釈ができるのか、面白い」と思ってもらえたら最高。ただ「存在する」だけでは、自己満足が形を与えられた姿に過ぎない。
ここで初心に返ってみるべきなのだけど、そもそもだ。私はなぜ当初の「自己満足」を、わざわざウェブ上で公開しようと思ったのか? 人様の作品を楽しませてもらったから、自分も誰かを楽しませる側に回りたかった? そういう恩返しと、些かの傲慢さがあったのは確かだろう。でも、もっと単純に考えて……ただただ、自分の好きなものを誰かと共有したい、「ワシはこれいいと思うんだけどみなさんどう!!」という、ひたすらポジティブな感情、非常に友好的な他者へのはたらきかけ、お裾分け的嬉しさ楽しさではなかったか。
それなのに、「人のために書くのではない」「評価されるものを書くのではない」「私は私」という素っ気なさへ、いつしか創作(物発表)の軸が変化していた。確かに、二次創作である時点で、全部が全部「私のため」であるのは間違いない。自分が書きたいから書いた。書かずにいられないから書いた。ただ、「極めて個人的な楽しみが、誰かの楽しみにもなるのだとしたら儲けもの」くらいの気持ちでも、「他人の目なんて関係ねえ」というスタンスでいれば孤独になっていくのは当然だったのだ。
そこで、評価される≒露出が多い=アピールが上手い創作者さんって、何が違うんだろう? と考えてみた。見せ方が上手い人って絶対自分に自信あるよな……と幼少期から考えている根暗なので、ここでも誤りがありました。これが三つ目の間違い。
もちろん中には自信のある人もいるでしょう。「みんな俺を見ろ!!!」みたいな人もいるでしょう。それはそれでいいと思います。でも、決してそういう人ばかりではない。「自分が」どうなのかは関係なく、ただただ、同じ作品を好きな「誰かが」楽しんでほしい、その人に自分の作品を届けたい、という思いがあるかどうか。
そうです。主語が何もかも「自分が」だった私は、完全にここで躓いていました。そりゃ、すべて自分中心に考えていれば、「こんなもの(作品)を世に 出したら刺される」とか「こんな下手なのに堂々と公開するなんて恥ずかしい」とか思って引っ込み思案になるでしょう。「下手だけど見てほしい! 似たような好みの人に届いてほしい!」と思っていたら、(否定的な)周りの目を気にするよりも、いつか届くかもしれない「誰か」を思うことに気持ちが向く。……まぁ、その結果見てもらえなかった場合に心が折れる、というのはあるかもしれないけれど、公開時点でうじうじしているのに比べたら十分、精神衛生上良好だと思うのよね。そうか、そう考えればよかったんだ……刺されることばっかり考えてた……
まさかこの歳になって、自分の精神的未熟さ、根本的な間違いに気付くことになるとは。本当に本気でがっつり恥ずかしいですが、気付けてよかった。気付けないまま、心のみならず筆を折ることにならなくてよかった。本当によかった。
突然こんな風に考え方を変えられたのは、偶然にもよい言葉に巡り合えたからです。何となく、マシュマロちゃんさんのページを見ていたところ、利用者からの創作にまつわる質問になかなか核心を突いた回答をされていて、思わず唸ったのでした。そういう訳で、以上はほとんどマシュマロちゃんさんの受け売りです。中の人(って言うとAIですって返されるけど)どんな人なんだろう。ってちょっと思った。
しかし、SNSから距離置いて世捨て人と化していたここ数年間が、過去に比べて精神的に安定し(これでも安定していたほうだったのだ! 驚愕!)、創作に集中できたことは間違いない。自分の自意識過剰な、卑屈な基盤がひっくり返ったことで、今後少しずつ変化していくのかもしれないけれど、とりあえずすぐさま「めっちゃ明るくて交流バンバンする人」になるのは難しい。焦らず養生します。大丈夫。認識が変わったのだから、次は行動を変えられる。ぜったいだいじょうぶだよ(:3_ヽ)_
まずは「見られること」に慣れなければいけないのかな、という気はしています。
しかし……創作にまつわることが解決しても、「人として許容できない」部分に関してはどうにもならないのだよなぁ、と今書いていて思い出しました。pixivとか、作品だけが流れてくる場所ならいいのですが、Twitterはね……。私は生まれ育った背景上、どうしても、差別というのが許せなくて、苦しくて、しんどいのです。きっと世の中の大多数が思っている以上に、この世には差別があります。「え? これも差別になるの?」みたいなことでも、私(や人権に敏感な人)の目にはまごうことなき差別として映るのです。だから、人々が無意識に、無自覚に垂れ流すヘイトスピーチが、一層私をTwitterから遠ざけてしまう。もちろんSNSに限らず、日常生活でも息苦しい思いをしています。特にこの数か月間のひどかったことと言ったら! 中国への差別(コロナ世界中にばらまきやがって、とか、国として遅れているから対処できなかった、とか)、感染者への差別(易感染だからといって職場でウイルス扱いされるのは本当に参った。どうして有名人の死は嘆くのに、身近な感染者(や感染が疑われる者)は村八分にするの?)、生活保護受給者への差別(定期的な収入があるのだから10万円もらうなとか)、高齢者・病気持ち・障碍者への差別(普段から医療現場を疲弊させているとか、生産性がないから重症化しても他の人に呼吸器譲れとか)……書き始めたらきりがないですが、一日出勤するだけでもどれだけ同僚の心ない言葉に心が死にかけたか。在宅勤務の体制がようやく整ったので、何が嬉しかったって、職場で嫌な話を聞かされることがなくなった。電車通勤も嫌だったけど、それよりもこっちのほうが辛かったから。本当にほっとしている。
私は頭の固い人間なので、どんなに親しく接してくれる人でも、どんなに素晴らしい仕事をこなす人でも、人として守るべき線を守れない人を尊敬することはできません。仲良くしたくもない。表面上は笑顔で接していても、心の中ではあなたを軽蔑していますよ、という相手が山ほどいる。
だから、創作云々とか関係なく、人と関わることそのものが怖いのかもしれない。仲良くなった人が、実は差別主義者だったらなんて考えると吐きそう。差別は意識的であっても、無意識的であっても許されるものではないと思う。私が特に最近危惧しているのは、ライトな差別というか、カジュアルな差別。美味しいお店の話するくらいの気軽さで、話のネタに差別を取り出す。そういう場面が日常でも多い。それが匿名の場ともなれば、さらに抑止が外れることも何ら不思議ではない。
無自覚な差別については、個人の人間性を非難するべきでないとは分かっています。それは社会が作り出した「こういう人たちにはこういうこと言っていいんだよ」という空気の所為だから。つまりこの空気が、差別をカジュアルなものにしているんだろうな。でも、「こういうこと(見下げる、馬鹿にする、笑い者にする)言ってもいい」人なんて存在しないんです。誰もが無条件に尊重される、というのが人権だから。「良い差別と悪い差別」とか、差別主義者とバトるとよく聞く言葉ですが、これもよく分からない。いい差別とかないから。
私の努力がまだまだ足りないのも確か。せめて身の回りだけでも、差別発言を指摘して、空気を変えることをしていかなければ。でも、どうしてそれがなかなか難しいって、指摘すると人間関係が壊れるからなんですよね。心の中では軽蔑しているくせに人間関係も何も、と思われるかもしれませんが、私は相手が考えを改めて、自分の非をみとめて、差別発言をやめてくれるならそれでいいんです。いつまでもネチネチ言ったりしない。でも、ライトな差別が今や「日常的な娯楽」と化してしまっているこの社会では、私のような者は「楽しみを奪う無礼な人」になる訳です。だから、人間関係が壊れる。
これが大好きな作家さんだった場合を考えてみてください吐きそう!! いや、実際、私が過去にTwitterを辞めアカウントを消したのも、ここが我慢ならなかったからなのです。今後繋がり得る方たちがそうであるなどと思っている訳ではありませんし、決めつけている訳でもありません。でも、怖いのです。トラウマなのです。マイノリティ要素の濃縮物のような私にとって、差別をする人は、自分に危害を加える人だから。
あ……やばい、創作への認知を変えたところで解決しない気がしてきました。人間全体への基本的信頼を回復せねば、私はいつまで経っても交流できないッ!!
はあ……やっぱダメだ、創作のことやってるだけじゃダメだ、やっぱりダメなんだ……つらい、しんどい、私だって好きでカウンターとかやってるんじゃない……できればやりたくない、創作だけしていたい、差別のない世界に住みたい、でもそのためには社会にはたらきかけ続けるしかないという圧倒的矛盾感!!
分かりました。嫌でも日常において人と交流(しかも良くない交流)をしていかなければならない以上、無用なストレスは抱え込まないに限る。分かった、よく分かった……やはり早々にSNS復帰するのは無理だ。日常がマシになるか、私がタフになるかしないと、とても余力がない。
結論出ました。つらい。こんな長々と思考をまとめるために書き綴っておいて、行き着く先は一周回って現状維持じゃねーかよ。進展のなさ。やばい。(語彙力)
まぁ、でも創作単独におけるストレスが軽減したので、よしとしましょう。自分で首を絞めていたね、っていう話だった訳だけど。うん知ってた。
…………よく食ってよく寝ます。
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