ひとつ前の記事のつづき。
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空の明るさはさほど変わらないままだが、夜は明けたらしい。
仄暗さと湿気に沈んだままの室内を、洗面所へと向かう。
カルキの刺激を全く覚えない水道水。
冷たい水で頬を打って、忘れろ、と呟いた。
あんなものは夢でしかない。
顔を上げて、鏡の中の人物と対峙する。
不健康に見える顔色は、きっと周りが薄暗い所為だろう。
ふう、と息を吐くと、正面の人物も唇を震わせた。
―――――…
雨音に紛れて、単調な機械音が耳に届いた。
慌てて寝室に戻り、枕元に放置したままの携帯を拾い上げる。
着信。
「はいっおはようございます!ご無事ですか!!」
急き込んだオレに吹き出したらしいあの人の声が、小さな機器を通して鼓膜に触れる。
『おはよう獄寺くん』
ゆっくりと言葉を続ける。
『オレは元気にしてるよ。獄寺くんも、元気?』
嘘を吐くという躊躇よりも先に、オレの喉は大嘘を吐き出した。
「元気です」
『そっか、よかった』
いつもならば、食事はちゃんと取っているか、診察の状況はどうか…
そんな質問が続くはずなのだが、今日は違った。
『帰って、きて』
「えっ?」
受話器を介したあの人の声は小さ過ぎて、聞き違えたのだろうかと耳を疑う。
沈黙を掻き流す大雨。
もしかしたら切れてしまったのではないかと不安になって、一層強く耳を押し当てた。
と、ようやくあの人の声が聞こえてきた。
『君が嫌じゃなかったら…帰ってきて欲しいんだ。昨日、主治医の先生と連絡を取り合ってね、教えてもらったんだよ。快方に向かってるって。もう大丈夫だろうって。むしろ…』
濁った語尾に、黙って耳を澄ませた。
『むしろ、独りの方がよくないかもって。だから…もし獄寺くんが構わないなら…帰って、こない?』
帰る、…
「どこ、に、ですか」
迷子になった。
自分が今どこにいるのか判らない。
帰るべき場所さえ、見付からない。
それなのに帰ってこないかと訊かれても
『オレの、そばに』
「十代目、の?」
彷徨っていた所を、背中から抱きとめられた思いがした。
『あっ…いや、別にオレの、って訳じゃ…。みんな、待ってるし…』
「みんな?」
『うん。みんな…』
「そうですか。じゃあ帰ります」
『え、本当に…いいの?』
「ええ。荷物まとめます。今夜には戻ります」
『あ…う、うん。帰り方は…判る?』
本当に迷子のようだ。
可笑しな質問のようだが、あの人の声の響きは、オレを案じている以外の何物でもなかった。
やはり“忘れた”事になっているのだ。
ぽっかり穴が空いているのは、ほんの一部分の記憶だけだというのに。
「大丈夫です。ちゃんと判ってますから」
そう、と胸を撫で下ろす雰囲気が聞こえた。
荷物は少ない。帰ろうと思えば、今すぐにでも出ていけるほどだ。
田舎のためバスの本数は少ないが、今夜には着けるだろう。
様々な考察を巡らせて、難なく帰還できるであろう事を確信する。
「しかし…という事は、十代目にお会いできるんですね。電話じゃなくて、会って話せるんですね」
確信と同時に込み上げた喜びを、偽る事なく素直に告げた。
悪い夢から覚めて、焦燥に駆られながら電話を待つ必要はなくなるのだ。
『そうだね』
短く言葉を切ってから、あの人は声を小さくした。
それでもその声がしっかりと聞こえたのは、豪雨がいつの間にやら小雨へと落ち着いていたためだろう。
『今だから言えるけど、オレ、本当はずっと獄寺くんに会いたくて…
だから、帰ってきてくれるの、すごく嬉しい』
毎夜繰り返されたあの光景も、何でもなく思えてくる。
ただ、受話器越しにはにかんだあの人を壊したくないとだけ考えた。
「オレも」
嬉しいですと伝えて、電話を切った。
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この後も一応少し書いてるんですが、また方向性決めまする…